ネパール旅行記 災害復興と医療発展に向けた研究コラボレーションへ

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ネパール_カトマンズの医療
南相馬市立総合病院 外科
澤野豊明

2017年4月12日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行

2017年3月15日から19日にかけてネパールのカトマンズに、現地の医療状況を視察するため訪れた。私たちは東日本大震災と福島第一原発事故で被災した福島県南相馬市で原発事故とそれに伴う社会変化による健康影響に関する研究をしている。今回、私たちの災害経験を2015年に起きたネパール大地震の復興やネパールの医療の発展に役立てるきっかけづくりのためネパールへ行くこととなった。
ネパールは人口2600万人、日本との時差は3時間15分と少し中途半端だが、かの有名な世界最高峰のエベレストを有するヒマラヤ山脈を望む中央アジアの看板国だ。その一方で、2015年の高齢化率は5.54%(世界第107位)、国民総生産は193億USドル(世界第107位)であり、日本の高齢化率26.34%、国民総生産5兆1060億ドルと比較すると典型的な発展途上国でもある。私も含め、ネパールはあまり日本と馴染みのない国と思う方が多いと思われるが、今回の旅を通じてその考えは覆された。

南相馬を出発して約24時間、経由地であるバンコクから4時間ばかりのフライトで首都カトマンズに到着した。空港の到着口では友人であるアナップ先生が出迎えてくれた。そもそも、南相馬とネパールの交流は2年前ネパール大地震を経験したネパールの医学生だった彼が災害復興の一例として南相馬を見学に訪れたことから始まった。思いの外カトマンズは暖かく、気温は20℃を超えていた。空港の規模とは対照的に、空港の入り口には多くの住民が詰めかけ、活気に溢れていた。ネパール農業省に勤めているアナップ先生の友人のデブダイさんが、省庁の車を使い私たちを宿泊先であるホテルまで送り届けてくれた。

カトマンズ市内を車で走ると、乾季であるため空気は乾燥し、至る所に舗装のないところがあり、舞い上がった砂で空気がひどく汚染されていた。デブダイさんの車は省庁の車だけありエアコンが効いて快適だったが、少し窓を開けると砂埃で目が痛くなり、口の中は砂の味がした。道路にはたくさんのモーターバイクが走り、車は通行帯を無視してどんどん遅い車を追い越し、挙げ句の果てには信号は1つもなかった。歩道には商店が立ち並び多くの歩行者で賑わい、正確な人口は定かではないが100万人以上を抱えるというカトマンズの人口密度を物語っていた。到着したシャンカーホテルは旧王族の宮殿をホテルに改装したもので、内装は古いものの外観は非常に美しかった。

ホテルに荷物を置いた後、私たちはまずボーダナートというネパールで一番大きな仏教のストゥパ(仏塔)に案内された。ここではストゥパの周りを皆が時計回りに回ることとなっており、その規模に圧倒された。またネパール人の信仰宗教はヒンドゥー教徒80%、仏教徒10%、その他イスラム教徒やキラント教徒で構成されているが、ストゥパの脇には小さなヒンドゥー教の祠があり、逆にヒンドゥー教の寺院には仏教の祠があるということで、2つの宗教が混在しそれぞれを尊ぶ習慣が印象深かった。その後、早めの夕食として“モモ”というまるで餃子そのものとしか思えない料理に舌鼓を打った。

またほとんど国外に出ないというネパールのビールを飲み、ヒマラヤを思わせる澄み切った味に一同感心した。夕食後にはパシュパティナートというヒンドゥー教の寺院に赴いた。道中は渋滞がひどく、幹線道路に迂回したのだが、そちらも工事箇所があり、前の大型バスが通れずに20分程動かなかった。このままずっと動かないのかと話していたところ、最終的にはバイクの運転手たちが協力してバスは通ることができた。
現地の人にとっては日常的な出来事なのだろうが、インフラが不十分な代わりにネパールの民たちの結束力に感心する場面であった。寺院に到着すると、川沿いで大きな炎が上がり、周りでヒンドゥー教徒たちが何やら叫びながら踊っていた。炎をよく見るとそれは人の遺体を乾燥した藁とともに燃やしているようだった。火葬場も近くにあるというが、ネパールでは遺体を荼毘にふす方法として、今でもこの伝統的な手法が好まれるという。私たちは大きな衝撃を受けると同時に、ヒンドゥー教徒の信心深さに畏敬の念を覚え、その神秘的な光景にしばし言葉を飲んだ。その後アナップ先生にチャイをご馳走になった。夜のカトマンズは少し肌寒く、温かいチャイがありがたかった。ホテルへ帰り、シャワーを浴びていると、シャワーのお湯は少し黄ばんでいたが、疲れた体には熱いお湯が染み渡った。

2日目は朝からアナップ先生の勤務先のトリブバン大学教育病院に向かった。国内最大の病院であり、なおかつ国内最高学府である同大学病院は、1970年代の建設当初日本が資金を出して建造された。その後増築されたが、今でも当時の寄贈を記す秩父宮様の記念碑があり、寄贈されたと思しき救急車も車庫には残り、長きにわたる日本とネパールの友好関係を目の当たりにした。院内を見学した後、坪倉正治先生、尾崎章彦先生とともに、災害医療の共同授業という形で医学生にお話しする機会を頂いた。

私たちは福島での原発災害の研究成果から、放射線被曝対策、さらには住民や除染作業員の生活習慣病など災害から間接的に引き起こされる健康問題に関して計40分程度のレクチャーを行った。その後三重大学で4年半に渡り外科研修を行ったという日本留学経験のある外科兼災害対策の教授であるバイジャ先生が、2015年のネパール地震の直後の活動を報告し、ネパールの災害対策やインフラ整備は不十分な一方で、ネパール全土で震災直後に診療を再開できたのは災害対策が比較的進み、かつ日本が建造に携わった強固な建物を持つトリブバン大学教育病院だけだったこと、災害対策の格子がネパール全土で作られつつあることを紹介し、災害対策の重要性を強調していた。

つまらない授業で眠ってしまう日本の学生とは対照的に、つまらない時にはおしゃべりを始め、面白い時には静かになるネパールの医学生の反応は興味深かった。一方で、化石燃料の供給が隣国インドとの関係性によって安定せず、財政的にも裕福ではないネパールには水力発電所しかなく、私たちの話に関してどこまで理解が得られたかは定かではない。しかし、放射線に関してバックグラウンドがない外国人に福島の原発事故に関して伝える難しさを改めて感じつつも、英語での発表経験の少ない私にとってはとても良い経験になった。

午後は、2015年の地震で大きな影響を受けた世界遺産のKathmandu Durbar Squareを観光に出かけた。世界遺産であるにもかかわらず復旧は遅々として進んでおらず、内部が博物館になっていたメインの建造物は10層のうち下の3層を残して倒壊し今も地震の爪痕がしっかりと残されていた。この寺院ではヒンドゥー教のある宗派から“クマリ”という少女の神が祀られ、彼女は寝食を限られた仏閣の中で過ごし、初潮を迎えクマリが交代するまで学校を含めて外に出ることは許されない。ネパールの若い世代の多くが英語を話せる時代に、こうした前近代的な習慣が今でも残っていることに驚きを隠せなかった一方で、日本ではあまり感じない宗教の影響の強さを再認識した。

夕食にはアナップ先生の案内で、彼の家族とともにカトマンズ市内にある有名なネパール料理店・カトマンズチャマという古いパレスを改装した店でネパール料理のフルコースを頂いた。現地のカレーは非常に美味であった上、私たちはネパールの伝統的ダンスの歓迎も受けた。ネパールには宗教の他に4ランクからなるカースト制度があり、ダンスはカーストの高い順に披露され、華やかな衣装から回を追うごとにと貧相な衣装になっていった。ところがそのように現在でも身分差が存在する地にあって、アナップ先生は仏教徒でありカーストは1番上、彼の妻はヒンドゥー教徒でカーストは上から3番目だった。身分社会ではあるが、その壁を越えたカップルも認められつつあることは非常に興味深かった。ところで、レストランにヒンドゥーの猿の置物があったのだが、それは日光東照宮にある日光猿軍団の三猿と瓜二つだった。日本に帰って調べてみると、日光三猿はシルクロードを通り、エジプトなどから伝わったというのが通説だ。日本の神道とヒンドゥー教のルーツに共通点があるのかと思うと、はるか昔のアジアの祖先たちに思いを馳せざるを得なかった。

3日目は郊外のネパール地震の仮設住宅(バラックのようなものらしい)へ見学に行くことも検討していたが、研究のコラボレーションに関する議論が不十分であったため、再び大学病院へ向かうこととした。消化器外科の教授であり、関西医科大学に4年半留学し腫瘍血管新生の研究をされたシング教授と、最近インドで経験を積みネパール全土で3人しかいない血液内科を始めたという医師と話をすることができた。余談ではあるが、ネパールの医師にとって日本に留学することは教授を約束されたスーパーエリートのようなものだということがわかった。ディスカッションの結果、研究のコラボレーションに関する具体的な話を進めることができた。震災の影響を推測するためには震災前後での患者の比較が必要な一方、トリブバン大学教育病院では紙ベースの診療録を使用しており、その保管状況は倉庫に順番も関係なく積み上げられているような状況だった。そんな中で診療録の管理者たちと話しをすると、性別や住所、ICD-10の診断名といった基本情報は直近の3年間に渡り電子データ化され保存されていることがわかり、それを用いて震災の影響を測るコラボレーションへの道筋を描くことでできるまで話は進んだ。

大学病院を後にし、タメルというお土産街を散策したのち、ネパール最後の夕食のためレストランへ向かった。道中で日本から寄贈されたという信号に初めて出会ったが、現在は使われておらず、交通量の多さから渡るのに苦労した(アナップ先生は余裕で渡っていた)。また2001年に王族が皇太子に皆殺しにされたという今でも真相はよく分かっていない事件の舞台となった王族の宮殿の脇を通った。現在は博物館になっているが、今にも雨が降り出しそうな夕刻に佇むその姿は異様に不気味だった。レストランに到着すると大粒の雨が降り出し、時折雷も光りだした。夕食中に停電もあったが、既述の通りネパールは水力発電しかなく停電は頻繁に起こるためなのか、現地の人たちは驚くこともなく普通に食事を続けていた。夕食を終え、雨が上がった中を歩くと、空気が雨で浄化されたのか、ネパールに来て初めて大きな深呼吸できる美味しい空気を吸った気がした。

ネパール滞在の最終日、前日に油断して生野菜を食べたせいか私は朝から旅行者下痢症になってしまい、ヨーグルトとチャイのみで朝食を済ませた。アナップ先生がタクシーで空港まで送迎してくれた。空港へ着くとゲートの外に長蛇の列ができており、ぎりぎりに出発せずによかったと思った。別れを惜しみつつも、無事にネパールを出国することができた。飛行機を乗り継ぎ日本に帰国し、私たちは無事にネパールの旅を終えた。

今回の旅を通し、発展途上国であるが活力溢れるネパールと日本の友好関係、歴史・文化の共通点を知ることができた。ダウンタウンは今でもバラックのような建物も多いが、一方で人々の活気に溢れたカトマンズ市内では世界遺産を含め、パレス(宮殿)がいたるところにあり、魅力的でかつ今後の発展が楽しみな国だと感じた。現地の教授たちとの議論を通じて、同行させていただいた先生方からの学びも大変多かった。今回、診療を休んでネパールへ行くことを快く送り出してくださった、外科の大平広道先生、塚田学先生、院長の金澤幸夫先生を始め、普段から支えていただいている病院スタッフの皆様にこの場をかりて心から感謝申し上げたい。今後日本とネパールの友好関係がさらに盛り上がっていくことに期待したい。また、私自身研究のコラボレーションに貢献し、その一助になれればと思う。

(2017年4月12日 MRIC by 医療ガバナンス学会より転載)

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