薬剤管理の一般事務から始まり、用度、医事、施設管理、クオリティ管理などの部署を経て、現在は医療法人東和会 第一東和会病院(大阪府高槻市、243床)の事務長を務める行本百合子氏。入職当初はキャリア志向がなかった行本氏ですが、医師150人との連携に基づく薬品管理を20年近く続けたことが強みになり、その後の異動や海外視察といったチャンスを自身の血肉に変えてきました。今回はそんな行本氏に、これまでのキャリアの軌跡を聞きました。
自分なりに考えたことがスポットライトを浴びる
―行本さんは現在、病院事務長を務めていらっしゃいますが、今日に至るまでどのようなキャリアを歩んできましたか。
ごくごく普通の一般事務として淀川キリスト教病院(大阪市東淀川区、581床)に入職し、薬剤部で18年ほど薬剤管理を担当しました。その後、異動して用度で2年半、医事課入院係で3年半、建物・設備の管理をする用度施設課で2年、病院の質を管理するクオリティ管理室で4年働きました。
その後は赤字病院を黒字にしてほしいとお声がかかり、総合病院日本バプテスト病院(京都市左京区、167床)の病院事務局次長 兼 事務部長を2年務めました。無事に黒字化できたのと、あまりにも通勤に時間がかかっていたのでもう少し近くで働けないかと考えていた時に当院の理事長に出会い、今に至ります。
―淀川キリスト教病院でのキャリアは、長く勤めた薬剤部から用度に異動したことが、ひとつの転機のように思います。異動にはどのような経緯があったのですか。
薬剤部長、事務長、2人のキーマンがいます。まず、薬剤部長は私のモチベーションを高めるために、事務が薬剤をどのように管理しているのか、医師や薬剤師に伝えてくれていました。そのため、専門職からの期待を自然と感じられるようになり、足りなくなったら買うという単純作業ではなく、どうしたら少ないお金で合理的に買えるのかを考えるようになりました。
他方、事務長は、そんな薬剤管理をしていた私にスポットライトを当ててくれました。この事務長は淀川キリスト教病院の経営が傾いた時に救世主として赴任してきた方で、院内でもコスト意識が重要な薬剤部に目をつけてくれたのです。私は着任当時から、約150人いる医師とコミュニケーションをとった上で、薬効や何にどれくらい使うのかを自分なりに調べながら購入していたので、計画的な切り盛りができていました。加えて、当時はWindows98が売り出された頃だったので、データを使って管理する仕組みもつくりました。そんな私の仕事ぶりを評価いただき、同じくコストがかかる医療材料や物品の管理もしてほしいとのことで、部署異動の第一号として薬剤部から用度に異動しました。
―異動後は、どのような業務に取り組みましたか。
外来、病棟、手術室にいるそれぞれの先生とコミュニケーションをとりました。医療材料は購入・発注するところから伝票を締めるまでが主な業務で、ここでも薬剤部同様、少ないお金で医療材料を切らさない仕組みをつくり、データでの保険請求点数管理まで行いました。
私の仕事のスタンスは徹底的に調べることだったので、医療材料についても手術室や診察室などに呼んでいただいて、「この道具はこう使うんだよ」など、色々と教えてもらったのがありがたかったです。これは薬剤部時代から「新入りの薬剤師よりも行本に聞いた方が早い」と言われるくらい、それぞれの医師との信頼関係を築けていたのが大きかったです。
経営も仕事のやり方も受け身ではいけない
―その後、医事課入院係、用度施設管理課、クオリティ管理室と短期間で異動しますが、それぞれどのような理由があったのでしょうか。
当時の事務長は部下の育成にエネルギーを注ぐ方だったこともあり、支出管理のノウハウが身に付いてきたところで、収入の仕組みが学べる医事課への異動を勧められました。異動前、「現在86%の病床稼働率を半年で96%にする」というミッションを与えられ、異動前に診療報酬の本を読み込んで必死になって勉強したのを覚えています。結果的に病床稼働率は96%となり、病院の経営改善に大きな貢献ができました。
その後は建物そのものや設備を学ぶために用度施設管理課、その後は中身の質を担保するためにクオリティ管理室と段階を踏んだら、病院全体のことが大体わかるようになりました。医事課在籍中とクオリティ管理室への異動前には、アメリカのワシントンD.C.にあるプロビデンス病院へ見学に行かせていただいたこともあります。
―アメリカの病院見学では、どのような学びがありましたか。
医事課在籍中に行った時は、これからは病院にも経営思考が必要なのだと学びました。今でこそ当たり前になっていますが、2000年前後の日本の病院は、みんな仲良く一線に並んでいたら大丈夫という意識がありました。一方、アメリカはその当時からそれぞれの病院が自ら考え、自院の強みをどんどん出していたので、日本もいずれはこうなるのだろうと身構えることができました。アメリカは日本のような国民皆保険制度がないので、お金がかかる病院には長く入院ができません。そのため、病院は優秀な医療スタッフを雇用して非常に質の高い医療を提供することが病院の生き残りのポイントでした。短期間での入院と次の医療を担うホームドクターにいかに引き継ぐかにより保険会社との契約が決まるということを聞き、平均在院日数が20日以上の日本と3~5日のアメリカの差に驚きました。
2回目の見学では質の管理方法を模索するため、看護師の動きなどを教えてもらったのですが、5年前の研修の時からすでに行っていたことで、まず採用時どのような看護業務ができるのかということを看護師ごとに記録していました。これが各看護師の契約と結びつきます。また、病棟で病欠等が出た時もその欠席者に合わせた力量の看護師を応援に呼んでいると聞きました。そこでふと思ったのは「こんないいことをやっているのに、どうして前回の見学時に教えてくれなかったのか」ということ。それを案内人の方に尋ねると、「あなたから質問が出なかったので言いませんでした」というお返事が返ってきたのです。その時、これからは受け身ではいられないと痛感しました。物事を色々な角度から見て、自分が知らないことや気付いたことはこちらから積極的に聞かないといけない。それから私は何事も先頭に立って聞くことを意識するようになりました。
―その後、赤字病院を黒字化した総合病院日本バプテスト病院では、どのような取り組みを通して黒字化を実現したのですか。
同院は大きな赤字を出しているにも関わらず、その危機を師長・課長などに知らせていませんでした。そのため、まずは師長会で当院の経営状況を説明して病床利用率アップを促し、その後の課長会では収入アップとコスト削減を依頼しました。京都という土地柄から難渋しましたが、約1カ月後から少しずつ数字は改善に向かってきました。
また施設基準の取得にも力を入れました。ここで一番大きな収入源となったのは7対1入院基本料。当時は届出制ではなかったので、現在の近畿厚生局に毎月日参して承認を得る努力をしましたね。ここでも職員と同じ目線で一緒に働くことを自分のスタンスにしていました。
周りからの評価ではなく、自分なりの喜びを
―そして、現在に至るのですね。ちなみに、最初に淀川キリスト教病院に入職したのは、医療に興味があったからなのでしょうか。
いえ、それほど深い理由はなく、子どもを保育園に預けるタイミングだったので、通勤のしやすさを優先していました。だから、キャリアを積んで事務長になろうとか、病院経営のトップランナーになろうという思いは正直ありませんでした。
それでも事務長になるまで続けられたのは、自分なりの喜びを見つけてきたからだと思います。病院事務職は他職種と比べたら相対的に評価が低く、不遇な時もあります。中には一生懸命やっているけれど評価されずに悩んでいる人もいるかもしれませんね。でもそんな時に誰も認めてくれないとひねくれるのではなく、1日1個でもいいから「やった!」と思える楽しみを積み重ねていくことが大切だと思います。仕事には何らかの喜びを持たないと成長しないどころか、職場に来ることすら苦痛になってしまいます。
私が朝から晩まで忙しくしているのは、自分の仕事が患者さんのため、職員のためになっていると感じるからです。例えば朝来てデータを見て、昨日は救急が忙しかったとわかればすぐ現場に行って「昨日は大変だったね」と声をかけることで現場のスタッフも救われる。お互いに「よかったね」「ありがとうね」という気持ちが持てるような仕事を続けることが、事務職の評価にもつながっていくのではないかと思っています。事務職であっても患者さんへのサービスが間接的にでもできることへの喜びになる働きをして欲しいと思っています。
<取材・写真:浅見祐樹、文・編集:小野茉奈佳>
約20年にわたる支出管理で知った「用度」の役割―第一東和会病院 行本百合子事務長【後編】
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