病院経営にはジェネラリストが必要だと言われる一方で、スペシャリストが持つ専門性が生きる場面もあります。今回取材したのは医療ソーシャルワーカー(MSW)として医療福祉連携室長を務めながら、経営企画にも携わる社会医療法人光仁会 第一病院(東京都葛飾区、136床)の網代祐介氏。現在は社会福祉士に加えてMBA、医療経営士1級などを取得し、医療専門職、経営企画職、医療経営の講師というパラレルキャリアを実践しています。そんな網代さんに自分の経験・スキルを専門性に昇華し、自身の価値を高めるための方法を聞きました。
社会福祉士とMBA、医療経営士1級、3つの専門軸
―まず、網代さんのキャリアのベースには、社会福祉士の専門性があると思います。当初は、どのようなキャリアを考えていたのか教えてください。
正直、「卒業だから就職しなければ」としか考えていませんでした。福祉系の大学に通っていたので、高齢者や障害者施設の介護の道に進む友人も多くいましたが、何となく介護の仕事は嫌で、医療ソーシャルワーカーの道を選びました。
地元の亀田総合病院に入職し、5年でやっと1人前と認められるような厳しい教育体制の中、社会福祉士としてのキャリアを積んでいきました。
―社会福祉士としてはどのようなスキルを身に着けてきましたか。
特に鍛えてきたのは、面接技法です。患者さんとの面接は素の網代祐介ではなく、専門職としての網代祐介でなければいけないと教わり、アセスメントと根拠に基づくコミュニケーションを実践してきました。おかげで、相手の言葉の思考分析をして、一文一句、間、表情、声色までも意図的に応える癖が身に付き、現在は患者さんとの面接だけでなく、他職種との連携や行政、業者との交渉時にも生きています。
―その後、病院経営に興味を持ち始めたきっかけは何だったのでしょうか。
入職3年目に、全56床の亀田リハビリテーション病院に異動したことです。917床の本院とは異なり、特に他職種との距離が近く、入退院状況を把握する経営会議にも参加させてもらっていたので病床稼働率や回転率などにも目が向けられるようになりました。売上の話も耳にしていましたが、その時はまだ病院経営を自分事としては捉えられませんでした。
―それから経営を本格的に学び始めたのは、いつ頃なのでしょうか。
入職9年目、31歳の頃です。単刀直入に言えば、疲れてしまったのです。一人ひとりに面接して支援をしても、患者さんは次々と来る。このままではキリがないと思い、社会のしくみを変革したほうが、一度により多くの人を救えるのではないかと思い始めたのです。
その頃、ちょうど親戚から「今時、専門性は複数持っていないと。MBAでもとったら」と勧められたのです。本音を言えば、カリキュラムを見てもピンとこなかったのですが、社会福祉士としてのこの先も見えていましたし、今変わらなければ将来は何も変わらないと思い、親戚の助言から1カ月後には入学試験を受けていました。
―早い決断だったように思いますが、懸念点はなかったのでしょうか。
授業は夜間と土日です。慎重派なので、仕事を続けながらの片道2時間半の通学や2年間休みなしで大丈夫だろうか、授業料の他交通費もばかにならず、自分の出したお金で失敗したらどうしようかという気持ちはもちろんありました。同時に、自分がMBAをとったところで、キャリアアップが叶っている姿を見いだせていなかったのも事実です。でも、先行投資した分は何かを得ようという気持ちだけ持って、多摩大学大学院に通い始めました。
結果、有名企業の社長や部長といった、世の中では成功者と言われる人でも必死になって悩み、勉強している姿に刺激を受けましたし、さまざまな経営学の視点は医療業界にも取り入れたいと感じるようになりました。狭い医療業界にいた身としては、経営の考え方自体がカルチャーショックでしたね。
―MBA取得後は医療経営士なども受験されていますが、それはなぜですか。
率直に、医療現場で働きながら経営学修士をとったので、「医療」と「経営」の両方が入った資格を記念受験しようと思いました。現場で働きながらMBAを取得したので、特に勉強しなくても受かるだろうと思って3級に臨んだところ、見事、不合格(笑)。その後、大学院でお世話になった長英一郎教授に、医療経営を生業にしたいなら医療経営士2級・介護福祉経営士2級・簿記3級は最低レベルだと教えられたため、医療経営士と介護福祉経営士は1級まで、簿記は3級を独学で取得しました。
―社会福祉士に加えて、MBAと医療経営士を取得したことで、キャリアにはどのようにつながっていますか。
思いのほか、仕事の幅が広がりました。病院の本業ではソーシャルワークと病院経営の両軸に関われるようになりましたし、医療経営士としては講師のお願いをいただく機会が増えました。
特に、医療経営士の講師は、自分が楽しいからやっている側面が大きいですね。私の講座はテキストと臨床をリンクさせる現場でのエピソード紹介がメインなので、厚生労働省の資料をひたすら解説するようなクラスとは一味違うテイストになっています。今のところ、全国トップの合格率を出せているので、これまでの経験・学びが生かされているのかなとも感じています。
現場と経営の橋渡し役を担う
―その後、第一病院に転職したのはなぜですか。
もう少し病院経営に入り込みたいと思ったのと、子どもの教育のためにも都市部へ行きたいと思ったからです。当院のことは長英一郎教授にご紹介いただき、中小病院で経営改善できる余地がたくさんあるだろうということで入職しました。
―現在の仕事内容を教えてください。
医療福祉連携室の室長と、経営企画室に半々くらいの割合で関わっています。連携室では困難症例があれば私がアセスメントに入りますし、院外への営業、新人研修も行います。他方、経営企画室では病床稼働率や平均在院日数などを出し、計画的な入退院のための策を検討したりしています。ちなみに、私が入職した際の最初のミッションは、病床稼働率60%の療養病床(35床)を満床にすることでした。
しかし、臨床倫理と医療経営とは相反する面を持つことも多いため、いかに医療専門職としての軸足をぶらさず健全経営に寄与するかという点では、立ち位置を明確に住み分けました。
―その療養病床を満床にするまで、どのくらいかかりましたか。
約1年かかってしまいました。一般病床からの転床と外部からの受け入れで3カ月もあれば満床になるだろうと思っていましたが、一番のボトルネックは職員の受け入れ態勢が整っていないことでした。稼働率60%の状態に慣れてしまい、これ以上忙しいのは嫌だという気持ちの方が強かったのです。
―そのような状況に対し、網代さんはどのように改善を試みたのでしょうか。
反発がピークだった時はあえてナースステーションで自分の仕事をしながら、看護師からの不満にひたすら耳を傾けました。「なぜあの重症患者さんを入れたのか」「このままだとみんな辞める」など、色々言われましたがまずは受け入れ、看護師が困っているときにはすべて手助けに入りました。この時の会話も、社会福祉士の面接技法が生かせたかなと思います。そのうち、頼り頼られる関係が自然とできて、看護師から「退院患者が出るけど次の入院候補者はいないの?」と言われた時は、組織の風土がようやく出来上がったと思いました。
私がこのような関係性をつくれたのは、現場への理解を示せたからだと思います。仕事柄、病床稼働率を上げると看護師にはどのような負担が増えるのかがわかりますので、そこに共感できたのがよかった。臨床現場での経験がない事務職であっても、数字だけではなく、現場に足を運んで一緒に考えることが大切なのだと思います。
―網代さんのように、複数の専門性を確立するためには自ら学び続けることが欠かせないと思いますが、そのモチベーションはどのように維持していますか。
大学院時代、学び続ける姿勢を持つ人たちはかっこいいなと思い、自分もそのようになりたいという理想像を持ち続けています。
とはいえ、サボりがちな性格の私は、目標がないと何もやらなくなってしまうので、常に小さな目標を立てています。最近は税金や資産運用に興味が出てきたので、せっかく勉強するならファイナンシャルプランナーの試験も受けようと思い、これも独学で何とか合格しました。貧乏症なので、テキストを買って受験料を払ったら、絶対に取り返したいという気持ちが湧きますね(笑)。
―最後に、キャリアに悩む事務職に向けてメッセージをお願いします。
私がMBAの大学院に通って改めて思うのは、現状に満足してはいけないということ。一歩外に出ればよりよい物事はごまんとありますし、他者からの刺激で新たなアイデアが得られることもありますから、常にアンテナを張って情報収集をしたほうがいいと思います。ただ、中には情報に溺れてしまう人もいるので、取捨選択する技術を身に付けることも大切でしょう。
情報収集をしながら仕事を続ける中で、自分が自信を持てるスキルを身につけられれば、それが自分の価値になります。私自身、何かを始める時は人の助言に従うばかりでとにかく自信がありませんでしたが、複数の専門性を持ったことで自分の希少価値が上がったと感じています。私のように臨床と経営の橋渡しができる人材は、まだ少ないと思うのでこの役割をしっかり担いながら、今後も変わらず頑張っていきたいと思います。
<取材・文・写真:小野茉奈佳>
コメント